NPO法人

       木曽三川 千本松原を愛する会


千本松原とは
宝暦治水と
薩摩義士
千本松原と
周辺の風景


千本松原とは
 岐阜県海津市の南端、揖斐川と長良川の背割堤約1km余にわたって、連綿と連なる風光明媚な松並木の名称です。
 この松原は昭和15年(1940年)に「油島千本松締切堤」として国の史跡に指定され、文化財保護法の対象となり、また岐阜県の自然公園でもあります。
 宝暦治水工事に携わった薩摩藩士が宝暦5年(1755年)、治水工事の完成後に故郷薩摩藩より千本の「日向松」を取り寄せて植えたものと伝えられています。
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クリックで拡大  木漏れ日の中、川面に吹き渡る風を頬に受けながら緑に染まる松原の石畳を歩くと、かつてここに熱き男たちの苦難に満ちた哀しくも壮絶なドラマが繰り広げられたことが不思議に思えるほどの静けさが漂っています。
 千本松原の北側には工事を陣頭指揮し完成を見届けたのちこの世を去った、総奉行薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)を祭神とする治水神社の厳かな佇まい、また南側には宝暦治水工事を記念して建立された宝暦治水碑があり薩摩藩士たちの偉業を今に伝えています。 クリックで拡大

宝暦治水と薩摩義士
 愛知、岐阜、三重県境を流れる木曽、長良、揖斐川(木曽三川)の中・下流域は濃尾平野の西側に位置し川筋が網の目のよう広がり、多発する洪水が多くの民を苦しめていました。
 江戸時代中期、宝暦三年(1753年)木曽三川とは縁もゆかりもない薩摩藩に治水工事の「御手伝い普請」の幕命が下されました。
 時の藩主島津重年公の請書決断で工事を引き受ける事となり総奉行平田靱負の指揮の下、約千名近くの藩士が任に就きました。
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クリックで拡大  自然の猛威は予想以上に凄まじく工事は困難を極め、当初の予定の費用をはるかに上回り、薩摩藩財政の約2年分以上とも言われる40万両もの巨額の費用を費やす事になりました。
 また異国の地での慣れぬ作業のため病気や事故、疲労などで、80余名もの藩士たちが尊い命を落としました。
 さまざまな悪条件のもとで藩士たちの不屈の闘志が実り、宝暦5年3月27日治水事業最大と言われた難工事が完成しました。
 その出来栄えは検分にきた幕府方役人も、絶賛するほどの完成度の高いもので、今日でも明治以降の近代治水工事の先駆けと高く評価されています。
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クリックで拡大  この江戸時代中期の大規模な治水工事は、幕府と薩摩藩それぞれの思惑もあり封印とされていましたが、明治中期になると各方面からの顕彰活動が始まるとともに薩摩藩士の偉業が讃えられ薩摩義士と呼ばれるようになりました。
 木曽三川流域の薩摩義士ゆかりの地には平田靱負を祭神とする治水神社をはじめ数々の慰霊碑などが建立されました。
 治水神社の春季例大祭(4月25日)と秋季例大祭(10月25日)には全国から関係者が駆け付け遠く鹿児島からも大勢の人々が来て、薩摩義士の偉業を偲ぶとともに岐阜県と鹿児島県の交流を深めています。
 また毎年5月25日の平田靱負の命日には鹿児島市平田公園(平田靱負屋敷跡)で頌徳慰霊祭が盛大に行われています。
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